風景をつくる建物39

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増沢洵自邸は9坪ハウスの原型と言われるとおり、1階が3間×3間の9坪、2階が6坪、延床面積15坪の家です。たぶん増沢夫妻のアトリエも同程度の規模の家だったと思います。そして、この二つの家に共通しているのが、吹抜けによるワンルーム空間と玄関が無いことです。(これも記憶が定かでないのですが、アトリエにも玄関は無かったと思う)
しかし、わたしは住宅に玄関は必要!と思っているから、これらを住宅として認めることにかなり抵抗があります。延べ面積10坪足らずの落柿舎ですら玄関はあります。土間付きの勝手口まであります。もっとすごいことに土間に井戸まであるのです。落柿舎こそ究極の最小限住宅ですね。

風景をつくる建物38

住宅を設計する場合、やはり最初は優れた実物を見学に行くのが一番だと思うのですが、住宅であるだけにそう簡単に「みせてください」と言えないところが辛い。それに見学したいと思わせるほどの建物がなかなか見つからないのも事実。その点、学生はずうずうしいもので、宮脇さんの住宅設計課題の時、先生に「参考になるような住宅があれば見学に行きたいのですが」とお願いしたところ、宮脇檀が紹介してくれたのはなんと、白井晟一の増田夫妻のアトリエ(1959年)でした。宮脇檀と白井晟一、信じられない取り合わせだ。友だちと3人ほどで見学に行ったと記憶しているのですが、それは増沢洵自邸を土でつくったようなどっしりとした建物でした。奥様はわざわざ外へ回って建物の西側壁面を案内してくださった。「白井先生はこの面をいちばん気に入っておられました」。それは暖炉の煙突もいっしょに土(モルタル)で塗りまわした分厚い壁でした。(この辺りは記憶もあいまいです。そもそもこの家に暖炉があったかなあ?)当時、宮脇さんは32〜3歳だったと思うので学生時代にこの家を見学に行ったにちがいない。増沢洵自邸が1952年だから当然こちらも見学に行っているはずだ。京都で、もし、若い人から「どこかオススメの住宅ありますか?」と聞かれたら、さて・・・・・。

風景をつくる建物37

雨といえば、やはり雨音のはなしになるはずなのですが、今では雨の日に聞こえてくるのは車のタイヤの音くらいのものです。事務所に居てタイヤの音が大きくなってくると、雨?、それから窓ガラスにミシミシとくればもう確実に雨。でも、ほんとうは雨音はもうすこし艶っぽくあてほしいですよね。
唐傘を軽くたたくパラパラという音、トタン屋根に打ちつけるバリッバリバリという音、青田を渡ってくるサーッという音、青葉を包みこむ音や早春の湖に降る雨の音、などなど・・・・・。芭蕉さんも音はすごく意識していました。
古池や蛙飛こむ水のおと
閑さや岩にしみ入蝉の声

建物に音を取り込む。
かなりいけるんじゃないでしょうか。

風景をつくる建物36

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よもすがら嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松    西行

波の濡らした松から潮の滴るさまは、まるで月の光が滴っているかのようだというのです。

子供のころ、縁側に座って藁葺屋根の先からドドンーと滝のように流れ落ちる雨をいつまでも眺めていました。庭先はまたたく間に池となり、ある時などは天からドジョウが降ってきて、庭先の池でピシャピシャ跳ねました。やがて雨は上がり陽がさしてくると、軒先からポタリポタリと落ちる光のしずくはまるで宝石。その向こうではグミがまっ赤に熟しています。
建築の五か条
その3、古典を学ぶべし、それは必ずしも建築にかぎる必要なし。

風景をつくる建物35

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いまの建築にとって、雨は疎ましいものと考えられ、建築家たちは竪樋を隠すことにやっきになっています。でも本来、雨は人間や動植物にとって好ましいものであり、ありがたい天からの恵みであったはずです。
そのように雨をとらえたとき、建築はどんな形をとるのだろうか?写真は街中で見かけた、すこしは雨にやさしいなと感じた部分です。
建築の五か条
その2、徹底的に部分を生きること

風景をつくる建物34

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ほんとうは「部分と全体」のはなしもちゃんとしておかなくてはならないのですが、そもそもこのブログ、“やさしい建築哲学”をめざしていますので、それはおいおいということにして、
今日は、いきなり、
席題、「雨の家」!!みなさんといっしょに住宅を設計してしまおうという訳です。しかし、その前に掟を定めることにします。
建築の五か条
その1、はじめに全体をイメージしてはならない。

間(アイ)2

ヒサノヤ
それと、もうひとつのテーマとして最初からあるのが、「建築を風景としてとらえる」です。実はこのテーマはこのシリーズと共に始まったというよりも、はるか昔わたしの学生時代から追い続けているテーマでもあるのです。ちょうど近代建築の時代が終焉した後に大学に入ったわたしたちは、近代建築の構成原理以外の何か、方法や世界観といったものを見つけ出す必要があったのです。わたしにとってはそれが「風景」でした。
京都にやって来て、設計事務所に入社して、それから独立して最初の仕事が写真のホテルです。この頃考えていたのが「ピクチャーレスク」なのですが、それは風景建築といったほどの意味でした。しかし、今わたしが考えている「風景」とは、もっと日常的なものです。

間(アイ)

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このブログ、なんだか話がややこしい方向へ傾きはじめたかも知れないので、このあたりで一度整理しておきます。
そもそもこの「風景をつくる建物」シリーズを書きはじめたきっかけは、長岡京市に完成した住宅「昭和の風景」の出来上がりがたいへんよかった。見に来られた人たちはみんな感動し、絶賛した。然るに、それがなぜ、どのようにいいのか? となるとなかなかうまく言えない。建築の読み方というものが確立されてないのです。そこで俳句(俳論)を参考にして(なぜ俳句なのかはいずれ書きます)建築の読み方というものをさぐってみようとしたわけです。ところが「読み方」というのは実は「つくり方」でもあるので、これまでつくられてきた近代建築や近代計画法といったものも無視できなくなって、話がややこしくなってきているわけです。

風景をつくる建物33

ふたたび俳句のはなしです。
古池や蛙飛こむ水のおと
だれもが知っている芭蕉の句ですが、実はこの句、長い間誤解されてきました。古池に蛙が飛びこんで水の音がした。誰れもがそういう意味だと思ってきたのですが、これはまったくの勘違い。このことについて、以下 「奥の細道」をよむ 長谷川 櫂 より引用します。


支考の書いた俳論書「葛の松原」の中に古池の句をめぐる一節がある。

弥生も名残をしき比(ころ)にやありけむ。蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて蛙飛こむ水の音といへる七五は得給へりけり。晋子(しんし)が傍(かたはら)に侍りて、山吹といふ五文字をかふむらしめむかと、をよづけ侍るに、唯、古池とはさだまりぬ。

弥生三月、今の四月も末のこと、蛙が水に落ちる音がときおり聞こえてくるので、芭蕉は興をもよおして「蛙飛こむ水の音」という中七、下五を得た。そばにいた其角(きかく、普子)が「山吹」という五文字を上にかぶせたらどうかといったが、芭蕉はただ「古池」とおいた。
ここには古池の句の謎を解き明かす鍵が潜んでいる。まず、「蛙の水に落る音しばしばならねば」とある。どこからか、ときおり蛙が水に飛びこむ音が聞こえてくるのだ。芭蕉は江戸深川の芭蕉庵の一室にいて蛙が水に飛びこむ音を聞いていた。いいかえると、蛙が水に飛びこむところも古池も見ていない。もし、芭蕉が蛙が水に飛びこむところ、あるいは古池を見ていてこの句を詠んだのなら、支考はそう書いたはずである。
次に、芭蕉は蛙が水に飛びこむ音を聞いてまず「蛙飛こむ水の音」という中七下五を詠んだ。そのあと、其角とのやりとりの末に「古池や」という上五をかぶせた。
私たちはこの句は「古池や蛙飛こむ水の音」という全体が一気に誕生したものと思いこんでいるのだが、その漠然とした先入観がここで打ち砕かれてしまう。「蛙飛こむ水の音」が先に生まれ、「古池や」があとでできた。

風景をつくる建物32

「部分と全体」のはなしのつづきです。たいていのひとはそうだと思うのですが、若い頃、自分の幸せな一生の全体像を心に思い描きます。そしてそのためには今何をすべきかを考えます。「こんなことをしていたら いかん!」とか思ったりするのも、そもそもその全体像というものがあってのこと。
実は建築の設計もこれに似たところがあります。今から30数年前、わたしが入社した設計事務所では、ほとんどの建物はコンクリート打放し仕上の柱、梁を見せるスタイルのものでした。設計の作業は、最初に全体を統括するグリッドを決めることから始まり、次にそのグリッドに対して破綻をきたさないようにプランを納めていくことでした。もちろんこのふたつはお互い関連しあっていますから調整しながらの同時進行となります。それからいよいよ最後になって柱や梁や壁に対して、それらが互いにどのような関係にあるかを表現するための化粧目地が切られて設計は終了となりました。部分と全体との関係を明確にさせるために、目地はとても頼りになる道具でした。この設計手法を、若いわたしたちはちょっと皮肉を込めて「物質の論理」と呼んでいました。その当時すでにわたしたちはこの設計方法はもう古いんだということに気づいていたのです。ところが、前回でも書きましたが、いまだに設計事務所で行なわれている設計作業は、本質的には当時と何ら変わっていません。建築は今もってなお近代建築のままなのです。

風景をつくる建物31

建築について考えはじめたとき、どうしても避けて通れない問題のひとつに「部分と全体」の問題があります。特に近代建築においてはほとんどそれが問題の全てと言えるほどです。
さて、今日はちょっと興味深い文章を見つけて来ましたのでご紹介します。

今では一日は真夜中の午前零時にはじまり、次の真夜中の午前零時の前で終わります。これを二十四等分したのが一時間。この一時間は昼と夜、あるいは季節や場所が違っても同じ長さです。こうした時刻の定め方を「定時法」といいます。江戸時代の時刻はこれとまったく違いました。基準となるのは午前零時ではなく、日の出と日の入りです。まず日の出が「明け六つ」(卯の刻)。これに対して日の入りは「暮れ六つ」(酉の刻)。この明け六つから暮れ六つまでの昼の時間を六等分したものが昼の一刻(一時、一つ)。一方、暮れ六つから明け六つまでの夜の時間を六等分したものが夜の一刻。これが「不定時法」と呼ばれるものです。日の出と日の入りは季節によって早かったり遅かったりしますが、不定時法では季節にかかわりなく、日のでは必ず明け六つ、日の入りは必ず暮れ六つとされていました。これでいくと、一年のうちで昼と夜の一刻の長さがぴったり同じになるのは、昼と夜の長さが同じになる春分と秋分、この二日しかありません。そのほかの三百六十何日かは昼の一刻と夜の一刻の長さが同じではありません。しかも毎日、少しずつ伸び縮みする。春から夏に向かうとき、昼の一刻は長くなり、夜の一刻が短くなります。逆に秋から冬に向かうとき、昼の一刻は短くなり、夜の一刻が長くなるというわけです。 (一億人の季語入門  長谷川櫂)

風景をつくる建物30

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実は、京町家にはもうひとつ別の形式のものが存在します。それは「通り庭」の代わりに、道路と建物の間に小さな「表庭」をもつ形式です。町家の本意は、“コンパクトで豊かな空間”だと思っています。もちろんお屋敷のような町家にはコンパクトという言葉はあてはまらないかも知れませんが、ここではもっとも普通な京町家を対象とします。豊かな空間とは、吹抜けや座敷飾りなどの人工的で見栄えのする空間と、坪庭や中庭に持ち込まれた、好ましい自然などを意味します。コンパクトとは、「形式」を意味します。中2階形式、通り庭形式、表庭形式、通し柱形式などです。限られた敷地で、建物を道路際いっぱいに建てざるを得ないとき、この町家の「形式」が力を発揮します。「通り庭」は、街と家を切り離すために持ち込まれた「間」です。この「間」のおかげで街も家もお互いに拘束されず、自由でかつ豊かであることができます。「表庭」もこれと同じ働きをします。但しこの場合、庭は観賞用ではありませんので、道路に対しては建物外壁のような閉鎖的な塀が欠かせません。
さて、町家の三つ目の形式は? それを考えるのが建築家の仕事なんですよね。

風景をつくる建物29

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もっとも普通な、どこにでもある京町家です。京町家の特徴は、俗にうなぎの寝床と呼ばれる奥に細長い形状や、通り庭、吹抜け、坪庭、通し柱方式の木組、面格子、季節に合わせた設え、建具・・・・・等々と、いろいろありますが、その中でも一番の特徴が、建物が道路境界いっぱいに建っていることだと思います。言ってみれば京町家は、「道路からいきなりごめんください!」形式なのです。しかし、西欧の建築と違うところは玄関格子戸を入ったところがいきなり部屋だったということはまずありません。そこには通り庭と呼ばれる内部とも外部ともつかぬ空間が存在します。見方を変えれば、通り庭のおかげで建物を道路境界いっぱいまで建てることが可能になったとも言えます。ところが最近の町家リフォームでは、この通り庭部分に床を張って部屋とするケースが多く見うけられます。こうなると実は町家の在り方の意味は根本的に変わってしまうのです。表通りに面した面格子の家構は単なるデザインに貶められ、残るのはデザインとしての町家です。戦後の家族制度の解体によって、農家も商家も制度としての家の部分は無くなりましたが、家の「形式」の部分はまだ健在です。大切なのは町家の「形式」なのです。

風景をつくる建物28

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最近では観光名所にもなっている祇園新橋の辰己神社です。小さな、ミニチュアのような神社なのですが、京都を舞台にした映画やTVドラマには必ずと言っていいくらい登場するので見覚えのある方も多いのではと思います。
さて、ここ一週間くらいですが、早朝にこの神社を水彩で画いている画家の姿を見かけます。覗き込むのも失礼かと思い、いつもスーッと通り過ぎるように心がけているのですが、ある日チラッと見えました(見ました、ゴメン)。しっかりしたデッサンで、伝統的な色づかいでした。洋画の色相ではなかったので日本画か、もしくは友禅関係の下絵だったのかも知れません。
その画家の姿が今朝は見えません。もう完成したのだろうか?そこで、いつもその画家が画いていた位置に立って、すこし腰を落として撮った写真が上の写真です。どうも社は画かれていなかったようです。そこで、もうすこし右側へまわって撮ったのが下の写真です。
はて、画家は何を画こうとしていたのだろう?

風景をつくる建物27

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建物は広い敷地の西側スミに追いやられるようにして窮屈そうに建っています。また、玄関も表通り側にではなく、ひと筋入った路地に面した穴のような入口を入ったところに、まるで庶民のそれのようにあります。これがあの元老・山県有朋の別荘なのだから驚いてしまう。敷地の大半を占める庭園(3,135平方メートル)は、有朋自らが設計・監督し、造園家・小川治兵衛(7代目)の作庭だそうです。庭は、いわゆる植治の手になるのですが、では建物はいったい誰の設計なのだろう? 有朋の設計を元に大工棟梁がつくったのだろうか? それとも庭に比べて建物の方はどうでもよかったのだろうか? どう見ても庭園に比べて建物が粗末にあつかわれている感はまぬがれません。
1、敷地全体は東山側が高く、西へだんだんと低くなっていくのだが、建物はそのいちばん低いところに位置していて、庭園を見上げる形になっている。(だからに庭園は偉そうに見えるし、東山も大きく見える)
2、建物そのものも、とにかく庭園側に対してその正面を向けている。(南側には大きな樹があって南光を遮断している)
3、洋館でさえも敷地の片隅に置かれたままになっている。
ここ、無隣庵(むりんあん)に来ると、かつて建物は庭の一部でしかなかったのだということが実によくわかります。
いまの住宅は、確かに土地が狭くて庭なんてとても、なのですが、たぶんそれだけではなくて、考え方そのものが変わってしまったんだと思います。いまの家づくりでは、住宅の残りが庭であり、その残りが街なんだと思います。

風景をつくる建物26

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いつも夕方になると2階から三味線の音が聞こえてくる。芸子が習いに来ているのだろうか。窓手摺を眺めていると、着流しの芥川龍之介がそこに座っている幻覚にとらわれそうになる。
和風建築は、自己完結することができにくく、それを取り巻く時候、天文、地理、人事、動植物などとの対話によってその世界が成り立っているような場合が多い。

風景をつくる建物25

俳諧(連句)は、複数の人々(連衆)によって五・七・五の17文字の長句と、七・七の14文字の短句とを交互に付けあわせ、一定の句数でひとまとまりとするもので、36句で一巻を構成するものを歌仙、100句で構成されるものを100韻といいます。そして、この俳諧のいちばんの特徴は、歌仙や百韻として巻かれるひとまとまりに、一貫したテーマ、あるいは筋というものが存在しないことです。あるのはただ、つぎつぎと現われては消えていく幻影の連鎖のみです。
これをつくる側から見れば、全体像を思い描くことはあらかじめ失われており、許されているのは五・七・五又は七・七の文字をもって、先行する句(部分)につぎの句(部分)を付けあわせることにより、新しい世界をそのつど切り開いていくことです。そのためには部分としての一句一句が、独自で豊かな内容のものである必要があります。俳諧にあっては、部分こそが全てなのです。

風景をつくる建物24

「・・・近代建築では、意図された強固な観念的全体像がすべてに優先して、建築において部分はその全体像に奉仕する忠実な下僕でなければならなかった。建築に限らずあらゆる分野で近代は忠実な部分の集積が即ち正確な全体であることを信じ切っていた。西欧の建築は、少なくともギリシャ以後、確固とした全体像を放棄したことはなかったが、近代程全体像がすべてに優先して支配的だったことも且ってなかった。」 倉田康男「建築造型論ノート96」

倉田康男(故人)はわたしの大学時代の恩師なのですが、「建築造型論ノート96」は、もう10年ほど前になると思いますが、大学時代の先輩が送ってくれたもので、今でもこうして時々取り出しては読んでいます。
しかし、驚くこと無かれ!! このような近代理性主義的な世界とはまったく違った世界が、実はかつての日本に存在したのです。

風景をつくる建物23

今から約40年ほど前(1970年前後)に、建築の世界においても近代主義は終焉を迎えたのですが、その後それに代わる新しい世界観を見出すことができず、建築は今もって近代建築のままなのです。
そこで今回は、“それじゃあ、ずっとむかしの人は世界をどのように見ていたんだろう?”ということで、なぜか? 与謝蕪村(1716〜1784)に焦点をあててみようと思います。
蕪村の俳句に目を通して、それぞれの俳句の文脈や蕪村の視点を読み取り、それにとりあえず思いつく言葉を当て嵌めて、それを書き出してみることにします。

小さいコト、人情の機微、ちょっとした出来事・光景・ふるまい、伝説・故事・古典を踏まえる、ありきたりな、愛おしみ、粗末な、解釈の豊かさ、買い被り、めずらしい、茶化し、平凡・普通・日常、くりかえし、ユーモア、ファンタジー、無名、細やか、ささやか、かすか、見立て、あいさつ、連想、昔ながら、生活、可憐、おどけ、鮮やか、あからさま、かくやくとして、ドラマティック、掛ける、ふざけ、おどろき、よろこび、おびただしい、古い、数、ほのめかし、瞬間、あやしい、時代設定、小説的フィクション、ちょっとしたおかしみ、音、空想、夢、芝居の一シーンのような、

蕪村を読み終わった後の印象は、
1、蕪村という人の感性は、まったく現代人と変わらない。隣のおじさんといった感じ。
2、中国や日本の伝説や故事、古典文学などを踏まえてつくったファンタジーやパロディーが意外と多い。

風景をつくる建物22

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この建物を見ていると、いや、この建物でなくてもいいのですが、こんな声が聞こえてきます。
「わたしは、自分は正しいとか、美しくあらねばとか、あまりそんなことは考えていませんん。それどころか、わたし自身がマンションなのか、大型複合商業施設なのか、ミュージアムなのかさえも特に問題にしていないのです。有名建築家でもいいし、組織事務所でもいいから、わたしの表皮を、それなりに処理してくれさえすれば、それでいいんですよ。」

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中書島のつづきです。
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今では普通の住宅として使われていますが、このようにかつての建物の一部が奇跡的に残っています。
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遊里には、どうも和風といろいろな様式の洋風建物が無秩序に混在していたようすです。ステンドグラスもとびっきり高級というわけではありませんが本物です。
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道路側溝と建物との間、20cmにも満たない犬走り部分はモザイクタイルと、貝の研ぎ出し。貝は夜光貝なのかアワビなのか分からないが螺鈿細工のように美しかったであろう。(現状は雨に打たれてくすんでしまっているが)
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現在ガレージとして使われているところの内壁に美しいタイルが貼られている。ここは何の部屋だったのだろう?カガミの枠のタイルもなんか高級そうだ。浴室だったのだろうか?

残っている部分だけからかつての全体像を想像することはできないが、それぞれの部分は自立していて、部分としてとてもきれいだ。

風景をつくる建物20

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この建物を見ていると、こんな声が聞こえて来そうだ。「わたしは正しく、美しい。そして、たとえあなたが居なくても、わたしは存在する。」 前川国男設計の京都会館です。全体の印象は、あくまでも禁欲的で、建築のあらゆる部分は全体に統合されていて、自立する部分も、自由な断片も存在しない。

風景をつくる建物19

中書島には、昭和39年まで遊郭がありました。その名残が今でも、もうほんのわずかになりましたが、見られます。遊里であるからには当然そこは、非日常的で幻想的、頽廃的な世界であったはずです。
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なぜ2階窓手摺が社寺の高欄を模したデザインなのかわからないが、もしこれが鮮やかな朱に塗られていたとすると、たしかに竜宮城のような幻想的な雰囲気を醸し出したかも知れない。建築全体は意外と禁欲的な構造です。
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肘木の先端には普通の町家には見られないようなくりかたが施されている。大工としてはこの程度の装飾しか思い浮かばなかったのかも知れない。
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とにかく普通の建物と大きく違うのは、このような限りなく細密な細工が施された断片があちこちにちりばめられていることです。幻想的な世界は、細部の力を借りることではじめて出現できたのです。

風景をつくる建物18

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都市の中を流れる川と、その川辺に密集するスラムのような木造建物郡。どこか東南アジア風で、なつかしい光景。これらの木造建物郡が、中高層の都市建築郡を地として、図を形成している。同じ木造2階建でも、適度に大きさや高さが違っていて、それが心地よいリズムをつくり出している。毎年くり返される、夏の間だけ設けられる桟敷(床)。ここには恒久性を感じさせるものも、強固な構造性もない。それぞれにばらばらで、自己完結することもなく、夕暮れの空、川の流れ、川風、暮れなずむ東山、少しずつ濃くなっていく街の明かり・・・などなど、との対話によって成り立っている世界。

風景をつくる建物17

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平等院の内にある塔頭です。日本の伝統建築は柱と梁による軸組工法なので、一般的に真壁造りの場合は構造体がそのまま意匠となって現れていると思われがちですが、実はそのような例は意外と少ないのです。この建物も、どう見ても表に現れている柱や梁や海老虹梁がほんとうの構造体とは思われません。まるで「餅に描いた絵」だ。要するに、このファサードにあるものは、ほんとうの構造体の代わりの、美しい、風景としての「間」です。よく、ヨーロッパは壁の建築で、日本は柱の建築だと言われますが、この建物を見ていると、日本建築には「構造から自由になった美しい壁の建築」、という一面もあるような気がします。

風景をつくる建物16

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平等院
超有名な建築物なので今回もルール違反です。平等院・鳳凰堂、ここもすでに何十回と足を運んだ場所、と言うより、まあ、わたしの庭のようなところです。でも、ここをはじめて訪れた人は、たぶん、「なんだか思っていたのとちょっと違う」と感じるのではないでしょうか。実はこのことが今回のテーマです。極楽浄土の宮殿をモデルにしたと言われる鳳凰堂は、言ってみれば風景建築の代表みたいな建物なのですが、やっかいな代物でもあります。
1)斜めから見ると非常に躍動感に満ちた建物ですが、そもそも真正面から見られることを想定してつくられた建物なので、視点を正面に限定します。
2)一見したところひとつの建物に見えますが、この建物は中堂と左右の翼廊の3つの部分(尾廊はこの際無視します)から成り、この3つの部分は構造的にも別建物となっています。
3)全体はシンメトリーを構成してはいますが、なぜか、たまたま寄せ集められた3つの」断片のようにも見えます。その理由はどうもスケールにありそうです。
4)建物のスケールは、中堂部分のみがかろうじて現実の実存的スケールでつくられていますが(これも完全とは言えないし、建物もさほどりっぱなものではない。唯一、絶対的スケールを持っているのは丈六の阿弥陀坐像のみである)、左右の翼廊はまるでミニチュアのごとくそのスケールは相対的なものです。(中堂の腰屋根を消してしまうとよくわかる)
5)この本来バラバラの3つの断片の寄せ集めが、一見まとまりのある建物に見えているのは、中堂に付いている3枚の腰屋根の働きによります。この腰屋根が実存的スケールと相対的スケールの繋ぎの役目を果しているのです。
6)鳳凰堂が非現実的、不安定、あやうい、ミニチュア、バラバラ、な印象を与えるのは以上のような原因によります。
鳳凰堂は、はたして建物なのか、ミニチュアなのかは分かりませんが、幻想的な風景をつくり出していることだけは間違いありません。

風景をつくる建物15

俳句は、つくることはもちろん重要ですが、実はそれ以上に、読むことが大切だと言われています。“詠むより読む”というわけです。読むことは詠むことと同じくらい楽しくもあり、難しくもあります。同じ俳句でも人によって読み方は千差万別で、読む中に自ずと自己が現れてしまいます。読むことは限りなくつくることに近いのです。
このことは建築についても当てはまるのではないだろうか、というのがこの「風景をつくる建物」シリーズの趣旨です。

風景をつくる建物14

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美しいなあ〜と、いつもこの家を見て思う。でも、なぜ美しいのか?考えてみたことはなかった。外から見る限りでのこの家の特徴は、
1、表に向かって閉ざされている。だが完全に閉ざされているわけではなく、吊戸2枚を引き込めば大きな開口部が現れる。ガレージとして使用されているのかも知れないし、光庭のようになっていて家の開口部がこの光庭に面して設けられているのかも知れない。
2、建物は大きくなく、こじんまりとまとまっている。
3、建物は高くない。平屋である。
4、全体の色調は明るくない。ほとんど黒に近い。
5、母屋は薄い切妻屋根で包まれていて、中庭部分は塩ビ波板の片流れ屋根。
6、大きな柿の木が家全体を包んでいる。すなわち、家は屋根と柿の木によって二重に包まれていることになる。
「・・・風景はまず(防御ないし攻撃のための)戦略的な価値をもっていて、それがのちに美的な価値へと変質していったのであろうと思われる。アプルトンは名高い動物行動学者コンラート・ローレンツの研究業績(周知のように動物に関する研究)から直接に着想を得て、眺望/隠れ家という二重の観念を明確にしている。原始人にとって風景は、見られずに(隠れ家)見る(眺望)ことを可能にすればするほど高い価値があったのである。」  日本の風景・西欧の景観(オギュスタン・ベルク著)
これで、この家をなぜ美しいと感じたのか少し理解できたような気がする。この家はタイプとして、典型的な隠れ家なんだ。しかも、見ることを完全にあきらめている隠れ家。

風景をつくる建物13

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特定の季節と関連付けられて印象に残る風景があります。わたしにとって、この風景はなぜか五月と関連付けられています。屋根の連続とリズム→甍→五月。そんな連想によるのかも知れません。もしそうだすれば、甍と五月はちょっと付き過ぎだな。
目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹
五月の鷹、なんと格調高いイメージなんだろう。寺山修司 15歳のときの句です。
それでは吾も、
手をひろげて五月の風を受け止めよ

風景をつくる建物12

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成り行きから、ここ西賀茂の正伝寺までやって来ることになりました。30数年前に来ているはずなのにほとんど憶えていません。たぶん当時は建築にのみ興味があって、仏像や庭園にはあまり関心がなかったからでしょう。正伝寺は円通寺と並んで借景式庭園で有名な寺院です。実は、前回“現実の世界でも見受けられる”と書いたもののひとつが「借景」です。「借景」にもいくつかのタイプがありますが、ここ正伝寺の借景庭園では、「枯山水」と遠景の比叡山との間に大きな「空」(間と言ってもいいと思います)が存在します。そして、何枚も写真を撮っているうちに、いくつか気付いたことがあります。それは、
1、主題は必ずしも比叡山とは言えない。(比叡山が大きく写るような写真の撮り方をすると、何かしら焦点のはっきりしない普通の風景写真になってしまうのです)
2、近景の庭園が強い秩序を持たないと、比叡山の存在まで薄れてくる。
すなわち、借景庭園というのは、借景の部分、ここでは比叡山ですが、その比叡山を主題にした庭園であるというよりも、「枯山水」と「比叡山」の「取り合わせ」が主題であって、それを成り立たせるために、その間に大きな空白(間)を必要としているんだということです。
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この写真の比叡山が借景と成り得ないのは、近景があいまいだからです。近景が形式を獲得したとき比叡山は借景へと変化します。このことについてはいずれ書こうと思っていますが、建築は機能や表現ではなく形式そのものなのです。

芋の露連山影を正(ただし)うす     飯田蛇笏
この句も
芋の露/連山影を正うす
と間を置いて「取り合わせ」の句として読めば正伝寺の庭と同じような光景が眼前に現れます。

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